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​植民地だった国

2010年1月に発生したハイチ大地震のニュースを見て初めてハイチ共和国の存在を知った方もいらっしゃることでしょう。ハイチ(Haïti)は先住民アワワク族の言葉で「山々の国(Ayiti)」という意味ですが、現在のハイチ国民はなぜアラワク族ではなく黒人なのでしょうか?

 

ハイチがあるイスパニョラ島の名は、1492年にコロンブスがアメリカ大陸を発見した時に「スペインに似ている島」と命名したことに由来します。この「発見」は西洋人側に立った表現で、先住民にとっては「白人による侵略の開始」を意味しました。

当時、イスパニョラ島には先住民アラワク族がいましたが、スペイン人が銀採掘に酷使したため全滅してしまいます。そこでスペイン人は、次の労働力としてアフリカから黒人奴隷を送り込み、サトウキビの栽培を始めました。「発見(侵略)」によって犠牲になったカリブ海域の先住民タイノ族やアラワク族の数は約50万人以上と言われています。

その後17世紀になると、カリブ海ではフランス、イギリス、スペインの海賊が割拠し、1697年にイスパニョラ島の西部はフランス領サン・ドマング(現在のハイチ)になりました。サン・ドマングは黒人奴隷制や、サトウキビ、コーヒーの栽培などにより最も繁栄したフランス植民地となり、「カリブ海の真珠」と呼ばれるようになりましいた。 

 

しかしその繁栄の犠牲になったアフリカの奴隷たちは、サン・ドマングまで運ばれる2ヵ月の航海の間、不衛生な船底に手足を縛られた状態で入れられ、「物」として扱われていたのです。大西洋海底には、この航海の途中に捨てられたアフリカ人の遺骨が100万体も沈んでいると言われています。

C.L.R.ジェームスが書いた『ブラックジャコバン』には、奴隷船の地獄絵が克明に綴られ、あまりの残酷さに内容を詳しく話すことがためらわれます。

そして植民地に着いてからも、黒人奴隷たちが苛酷な労働を強いられ、逃亡した奴隷への罰として身体を切断したり火炙りなどの残忍な記録が残っています。

 

当然のことながら奴隷たちは度々反乱を起こし、1791年、黒人逃亡奴隷ブクマンを頭にした一斉蜂起でハイチ革命が始まりました。

ハイチ革命はフランス、スペイン、イギリスの植民地争いにもなり、泥沼状態の中、ハイチ建国の父であるトゥサン・ルベルチューユが「フランス本土での黒人奴隷解放は、フランス領サン・ドマングでも同じく奴隷解放だ」と宣言してフランス革命に大きな影響を与えることにもなりました。

戦いは指導者デサリーヌに引き継がれ、遂に1804年、ハイチはナポレオン軍を打ち破りフランスからの独立を勝ち取ります。世界史上初の黒人共和国の誕生です。

 しかしフランスは独立と引き換えに、ハイチに1億5千万フランもの賠償金を要求し、ハイチは1922年完済という長期にわたる借金返済で財政破綻しました。

さらに独立後も強国からの干渉は続き、アメリカによる占領、クーデター、そして今も続く政権争いでハイチ国民の生活は疲弊しています。

ハイチの貧困の根源は、「植民地支配」という搾取された歴史にあります。貧困に苦しむ国々は、内戦、民族紛争、独裁という理由もありますが、「植民地だった」という暗い歴史を背負うことが多いのです。

 残念ながら、過去はやり直すことはできません。過去からは学ぶしかないのです。

奴隷船の存在を知らなかった私たちは、今また、ハイチを始めとする途上国で、また世界のどこかで、助けを求めている人々の声が有るのを聞き逃してはいないでしょうか。

 

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