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遠い国
 

日本人がハイチに渡航する場合、短期間の滞在ならビザは不要です。ハイチ人が日本に渡航する場合は経由国のビザが必要ですが、発行を拒否されることも稀ではなく、手続きも煩雑です。日本からハイチまでは、ニューヨーク経由、またはシカゴからフロリダ経由で1泊してポルトプランス空港に着くのが一般的なルートです。ハイチで唯一の国際空港であるこのポルトプランス空港が、2010年1月のマグニチュード7のハイチ大地震の時には、管制塔や滑走路の破損で使用不能になりました。そのため一時は海外からの緊急支援は隣国ドミニカ共和国から陸路やポルトプランス港への海路で行われました。世界各国が軍隊を動員して国力を誇示するような救援を行い、また緊急救援の非政府組織(NGO)が先を争うように続々とハイチに到着して、目覚しい勢いで新しい空港や港、道路が地震以前よりも立派に建設され、建国以来の開発ラッシュになり救援活動が始まりました。しかし、もともと無いに等しいインフラが崩壊した事よりも、300万人以上の被災者と30万人以上の犠牲者を出し、更に国の将来を担う人材や文化を瞬時に失くしたことは、ハイチにとって大きな痛手でした。多くの政治家が亡くなり、国政も一時止まりました。他の国が支援できることは限られており、再生できない損害の多くは支援では補えないのです。私たちはハイチの人々が自ら望み、自ら行動する国家再建を見守ります。

 

 

ハイチには郵便配達制度が無く局留めのうえ、紛失も多いので、FedExやDHLなど国際宅急便を使います。ハイチは「クリック?(話を聞きたい?)クラック!(話を聞かせて!)」のやり取りのような、人から人への伝承文化があります。ラジオやテレビを持たない貧しい人々や、識字率62%(2010年ユニセフ)で文字文化の外に居る人々の多くは噂話や教会でのお説教から情報を得ます。新聞や手紙、インターネットを通して世界とつながり、情報を得られるのは限られた人たちなのです。「ハイチの会」の支援先は、貧しい農民たちが暮らす山村でそこではインターネットも出来ません。ある日、支援地から所用で日本国外務省に電話をすると「ハリケーンが直撃するので予定を繰り上げて出国して下さい」と言われました。周囲のハイチ人に「ハリケーンが来る」と伝えても笑うばかりで誰も取り合ってくれません。数日後、橋の無い川をバイクで渡り、セスナに乗り継いで首都に戻り、予定より1日早いニューヨーク行きの便で、既に突風が吹き始めたハイチを後にしました。やるせない思いの帰国でした。その日の夜半から巨大なハリケーンがハイチを襲い、川は氾濫し、村が住民ごと流され、空港はマヒし、数日間ハイチは世界から孤立したことを後で知りました。ハイチが世界から情報を得られないと同時に、世界もハイチの情報に疎いのです。ハイチまでの距離の遠さ、情報の少なさがハイチ支援を疎遠にしていることは否めません。「ハイチの会」は今後も出来るだけ多くの情報を提供して、ハイチを忘れないで頂く努力に励みます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(橋の無い川を渡り支援地に行く。川は幾度となく襲うハリケーンで氾濫する。)

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